北海道、其の二 (後・道東編)

北海道、其の二


(後・道東編)


旅行場所:道北・道東のエリア

期間:1983年 7月27日~ 8月 7日

行程:8月1日、深川から特急ライラックで滝川に着いた。もう後は道東のエリアを乗れば完了である。根室本線の滝川から新得迄の区間は、石勝線が開通するまではメインルートだったが、もうローカル線状態である。約3時間、鈍行のディーゼルカーに揺られ新得に着いたら6時前だった。道内の普通・急行の窓は寒さ対策の為、二重窓になっている。電化区間は函館本線(小樽から旭川)、室蘭本線(室蘭から沼ノ端)、千歳線(全区間・苗穂から沼ノ端)の3線区だけで、他はディーゼルカーが主役、一部機関車が客車を引っ張っている。(後の青函トンネル開通時に江差線の木古内から五稜郭・函館本線の五稜郭と函館の一駅間が電化された)
新得で50分の待ち合わせで6時35分発の急行まりもで帯広に着いたのは7時半ごろである。この日はここで宿泊。結構大移動だった。

8月2日、この日は帯広を南北にそれぞれ伸びる2線区の往復である。距離が長く本数が少ないのでこれだけで1日仕事になる。まず広尾へ向けて南へ走る広尾線(廃線)を8時過ぎに出発、約2時間で広尾に着く。30分程で折り返し、北へと戻る。この線は愛国、幸福の2駅で有名なローカル線で、幸福駅のホームには夏休みの時期というのもあって、人が溢れかえっていた。収支のうちで入場券の売り上げに頼る部分は大きい。沿線は牧草地が多い。12時を廻って帯広に一旦戻り、1時間待ちの間に昼食を済ませ、今度は士幌線(廃線)を北へ進む。こちらは北へ行くにつれ山地が見える。列車は糠平止まりだが、営業の上では十勝三又まである。しかし利用者が少ないので代行バスが走っていて、民間に委託している。旅行前に偶然TVで知ったのだが、運転手はなんと大阪から移住した人らしい。折り返すのに1時間少々、時間待ちをしていると、その運転手の人が駅員と話していた。「もうちょっと乗って貰わんとな」と関西弁のままで喋っているのが聞こえた。道東の山中の駅で関西弁を聞くとは思わなかった。4時過ぎに出発して、5時半迄には帯広に着いた。帯広で2時間少々待ち時間があるので、夕食をとり急行まりもを待つ。(現在の帯広駅は高架化されて立体交差になっている)
7時半を過ぎて、まりもに乗ったらその日に駅でお互い写真を撮りあった少年がいた。彼も同じ目的で福島から来たそうだ。こちらが時間待ちの間に西へバックして座席を確保という訳だ。周遊券を使うとエリア内は乗り降り自由なのが便利でいい。夜9時を廻ってこの日の宿泊地白糠に着いた。

8月3日は早朝6時半過ぎに白糠線(廃線)の列車で北進迄行く。終着駅の北進は名ばかりで北へ進む気配が無いどころか、廃線の話がある線区だ。駅も無人である。10分で折り返し、白糠ですぐの乗換えで9時過ぎに釧路に着いた。1時間以上待って根室行きの列車に乗り東へ進む。景色を見たかったのだが、ガスがかかって終着の根室に着いても晴れる事が無かったのは、残念で心残りとなった。遅めの昼食を取り、根室を出て厚床に3時過ぎに着くとここからは標津線(廃線)に乗り換えだ。中標津に4時半少し前に着き、20分程待って次の列車は根室標津迄、所要時間は30分。もう夕方である。5時半を過ぎて標茶へ移動、7時半を廻っていた。もう景色がどうこうではない。早く体を落ち着けたい心境であった。この線区で東京から来た中学生の少年と途中迄行動を共にして、その後も年賀状でやり取りが続いている。標茶を出たのは8時10分、1時間少々で釧路へ戻った時には夜の9時半を迎える頃だった。後は3線区、とにかくメドがついてきた。

8月4日、釧網本線(現在オオーツク沿岸を走る唯一の路線)の列車には余裕があるが、分岐点の駅は隣の東釧路なので先に写真を撮りに行き、釧路へ戻り始発駅から座席を確保。9時過ぎの急行しれとこで約3時間、白樺の景色を見ながら網走へ着いたのは12時過ぎ。2時間近くの待ち合わせで食事の後は中途半端に暇だったので、観光するでもなく退屈だった。2時前に特急オホーツクで美幌へ行き、ここで又2時間待ち。何しろ本数が少ないのでどうしようもない。4時半近くに相生線(廃線)の列車に乗る事約1時間で北見相生へ。折り返しの待ち時間は9分、夕方の5時半を廻っていた。美幌に戻ったのが6時半過ぎ、1時間後に来た列車で北見に着いたら夜8時を過ぎていた。北見はこの付近では大きな町である。宿泊先も大手のホテルを取ってあったのでゆったりできた。

8月5日の早朝、北見駅には夜も明けないうちに入る。いよいよ道内の路線としてはこの池北線(現在はふるさと銀河鉄道ちほく線)がラストの締めとなる。ふと気付けば見覚えのある少年が声を掛けてきた。実は、7月30日に深名線で写真を撮りあって一緒に乗っていた少年である。帯広でも1度会った少年と再び会った事があるのだが、本数の少ない路線が多いと計画が似通ってくるのだろう。この旅で2人目である。6時丁度に出発、池田迄乗り換え無しで4時間近い長旅である。景色は長閑だが退屈でもある。10時少し前に池田に着いて、先程の少年と写真を撮りあう。ついに道内の路線を完乗したのだ。長い道のりだった。ここからは当初の予定を変更である。実は釧路の奥の方に親の親戚が住んでいて、折角来たのだからと先に釧路に居た折に電話しておいたのである。2時間待って特急おおぞらで釧路に向かった。あの少年も一緒だ。満員で立ったまま移動、1時間半程で釧路に着いてここから又、一人旅だ。昼食を済ませ、バスの時間迄何か見ていこうと案内所で聞いてみたが遠くへは行けず、花時計と石川啄木の像を見た位だ。バスは目的地までは1日4便しかない。バスの窓から見ていると、路上教習の車が2台、信号の少ない平坦な道を走っているのが見えた。この時期運転免許を取るのに教習所へ通っていたのだが、中断して北海道へ来ていたのだ。坂道やカーブ、信号の多い街中で教習を受ける身には、釧路の教習が羨ましく思えた。2時間位乗っただろうか、バス停を降りて親戚の家へ。北海道に移住してから会うのは初めてである。温かく迎えてくれて一夜を過ごした。

8月6日、前日辺りから気温が上がっていた。北海道も真夏は結構暑い。帰路に着く為早目の出発で束の間の滞在だった。近所の人が仕事で和商市場に行くから、と乗せて貰える様に段取りしてくれていた。お握りとゆで卵を貰って、名残を惜しみつつ車に乗って釧路へ向かった。
途中の道程は信号が殆ど無く、ギアチェンジもいらない。教習で苦労しているだけに楽そうに感じた。和商市場で一旦降りて少し見学して車に戻り出発を待つ。暫く待ってから釧路駅迄送って貰った。
釧路始発の急行まりもに乗る人達の列が出来つつあった。本数の少ない駅では発車近くでないと改札をしない事もある。やがて改札が開き車内へ、無事に座れて8時28分発車、札幌に着く予定は3時前なので、6時間強の長旅になる。途中、帯広の前後で緊急事態発生!、急激な気温の上昇でレールが曲がる恐れがあり減速するというのだ。さあ困った、その先の乗り換えには時間の余裕があまり無い。気を揉みつつなるようにしかならないと、思っていたが新得から石勝線に入って急転、この線区はバイパス的に作られたのでトンネルが多く、気温が低かった。まりもは遅れを挽回すべくスピードを上げて石勝線を突っ走り、その甲斐あって少しの遅れで済み、札幌へ滑り込み土産の夕張メロンを買える余裕もあった。3時過ぎの特急おおとりで一路函館迄4時間少々の道程である。これがこの旅で道内最後の列車と思うと名残惜しくもある。7時半少し前に函館に着いた。16分の乗り継ぎで青函連絡船へ。10日前後の長旅で色々な思い出を残した北海道といよいよお別れである。次に来る事はあるのだろうかと思っているうちに、船は夜の津軽海峡を青森に向けて進んで行く。夜食にカレーライスを食べた後は仮眠して夜の12時10分前に青森に接岸、久しぶりの本州だ。ちなみに北海道の人々は本州に住む人を内地の人と言っていた。翌朝までは前年同様に青森駅構内の連絡船待合室で一眠りだ。

8月7日、早朝の奥羽本線4時50分始発の特急白鳥で日本海・上越ルートの帰路である。7時20分に秋田に着いて、ここから羽越本線の踏破だ。8時半頃に特急いなほが出発、日本海沿いに南下して新発田には12時丁度に到着。食事の後、新津、新潟と移動し、3時丁度発の上越新幹線ときに乗り5時過ぎに大宮へ着く。途中の景色はトンネルだらけだった。後は新幹線リレー号、京浜東北線と乗り継ぎ、東京駅を出発した時は6時を結構廻っていた。夜10時前に新神戸駅に着き、12日に及んだ北海道旅行は幕を下ろしたのであった。またいつかの思いを秘めて。


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